時は平安の中頃。 時代は貴族支配から武家支配への胎動期であった。 一人の青年が、京の都で途方に暮れていた。青年は源氏に連なる東国の貧しき武家の嫡男だ。保元、平治といった大きな動乱はなくとも、様々な宮廷の中小の権力闘争の中、無用に駆り出された。そのため一部の表舞台の武士以外の家々の経済状況は逼迫する一方であった。 そんな中、青年の家も没落し武家としてもっとも貧しい部類だ。おまけに、今回の歴史に名の残らないような宮廷騒乱で、親子で上京し、父はあっさり落命してしまった。 青年は途方に暮れた。 「家に戻っても、財貨も無い。生活の糧も無い。いかにするべきか。」 そこで、青年の出来る決断は、とにもかくにも、まずはこの騒乱から鎌倉に戻ることであった。青年の決断はすばやかった。逃走の道中、武家であることが露見しないよう、鎧刀、父の形見を隠し京の都を去った。唯一残った、一族自慢の名馬でひたすら駆けて。 しかし、鎌倉に戻ったところで、非常に貧しく、京で落命した父の家を継いだところで、家計は火の車であった。ましてや、敗軍の将。武家集団の中での地位も低下していく一方であった。地位が下がれば、人も離れる。以前であれば、衣食を相互に融通しあってくれた、武家仲間も疎遠になり困窮の度合いは増す一方である。 まもなく、その家は、事実上、滅亡した状態になった。青年は生き残った母親や、わずかとはいえ、付き従ってきた使用人たちを食わせる手段を考えなければならなかった。 また、武家としての魂の鎧兜や刀といったものを、京にかくして逃げてきた。加えて父の形見すら置いて逃げている。これらを取り戻さねばならなかった。東国武家としての失った地位の向上のために。 信用を失った今、蝦夷討伐といった、武門の力量を発揮できるような仕事も、なくなってくることだろう。 しかし、武家の次期家長として育てられたため、世俗のことには無頓着だ。生活のための財貨の生み出し方も思い付かない。そこで、青年が頼ったのが、奈良の著名な長谷寺の分寺として最近建立された鎌倉長谷寺だ。今でこそ、寺社は宗教上のシンボルとしてしか取り扱われないが、当時、寺というのは、中国大陸からの最新の学問や技術を持ち込む大学としての機能が重要視されていた。政治的側面においては、地域や中央のシンクタンクとして機能し、また、経済活動においては、まさにコンサルタントとして機能してきた。 鎌倉長谷寺のような、著名な寺社が建立されたのであれば、武門一辺倒の武士に対して軍略や経理といった知見のレクチャーを、鎌倉一円の武士に対して、おこなっていたことは想像に難くない。 そこで、青年は同寺に訪問した。現代で言えば、大学や各種の公的な研究機関などに駆け込んだのだ。大学教授に当たる僧侶をつかまえ、話し掛けた。 「家を富ませて、京の都に再び上りたい。」 僧侶は問う。 「裕福で、なおかつ京の住人になりたいというのか。それでは貴族になるか?」 青年には思いもよらぬことであった。あくまで武家として豊かな生活と、その武家集団の中での地位向上しか考えていなかった。 「そうではない。まずは家を富ませて、その富で武力を貯え、京の都で父の復讐を果たすのだ。」 青年は素直に答えた。僧侶は、そういった復讐心も小さな青雲の志も聞いてなかったように淡々と 「まずは、とにかく富だな。一月ほどここで講義を受けなさい。古今東西の富の原理を教えよう。その上で、次を考えると良かろう。」 と、答えた。そして青年は3週間、寺に通い詰めた。報酬は後払いという条件で。当時の一月は、28日、4週間に当たる。 講義の内容は現代の我々からは想像もつかない。しかし、当時の貨幣流通の基本原理や、それを活用してもうけた、古今東西の成功事例の紹介ぐらいは行われていたであろう。 青年は真剣だった。親や付き従う使用人のため。貧しさから脱却するため。武門の誇りを取り戻し、再び京の地を踏むため。当然、それだけ真剣であれば、学問の吸収も早い。また、学問に対しての青年自体の才能であったかもしれない。青年の商売に対する基礎知識は目覚しく向上していった。 最後の一週間が始まる日、青年の講義を担当した僧侶が言う。 「最後の一週間は、おまえの自分の商売を考えることが課せられた業だ。しっかり考えよ。」 青年ははたと困った。商店を開こうにも、運輸業をやろうにも先立つものも地盤も無いのだ。自分のことと照らし合わせると、学んだことなど、まさに机上の空論としか思えなかったのだ。 「こんなものに報酬を払うのか。」 青年の正直な感想であった。しかし、もはや後戻りのしようもない。いたずらに日数だけが過ぎていく。最後の最後に、青年は担当の僧侶に問う。 「私には何も無い。学んだような数々の例を真似ることも出来ない。報酬も払えない。死して許しを請う。」 僧侶は、聞いた。 「本当に何も無いのか?必ず何かあなたは手に持っているものがあるはずです。それをきっかけにしてやってみなさい。死ぬのは、その後でも良いでしょう。」 青年は、失望したまま鎌倉長谷寺を去った。 この作品はフィクションであり、実在するいかなるものとも関係はありません
舟橋正浩
|