「何もこの手には無い。」 青年は家につくと、ふてくされて寝床に横になった。平安時代、庶民や貧しいものにとっての寝床はワラ敷であった。そして、彼が手にしたのはこのワラだった。青年は、このワラを眺めて、ぼんやりと考えた。何か出来ないかと。しかし、ワラなどどの家にもある。学んだ様々なことが頭をよぎる。 「ワラ単独ではどうにもならないが、何かと組み合わせれば。」 その時、隙間だらけとなった、青年の家の中に一匹の虫が入ってきた。既に没落し、家の修繕もままならない。虫は青年にまとわりつく。この時代、庶民にとって、虫は何であれ貴重なタンパク源だ。青年は、なんの気なく、虫を捕まえた。食用であれば食べてしまうつもりで。 「なんだアブか。食ってもうまくないな。」 アブをワラで縛り付け、端を持ってみる。どう考えても子供のおもちゃ程度だ。青年は失笑する。当時、彼らの階級で子供のおもちゃにお金を払う人などいない。 「しょうがない。アブでも食うか。」 と、その時青年の頭によぎったのは、蝶よ花よと育てられている上級武士や貴族の師弟である。と、同時に欲する人には何であれ売れる可能性があるということも青年は学んでいた。 「ああいう餓鬼どもになら、ひょっとして売れるかもしれん。」 しかし、青年は非常に下級の武士だ。そのような上流階級のコネクションはない。上流階級が出入りしていて、なおかつ下級階級が出入りしても許される場所を青年は考えた。一つだけあった。それは寺社仏閣。まさに青年が学んだ場所である。 青年は、アブ付きのワラを持って鎌倉長谷寺の前に立った。通いなれた場所とはいえ、アブ付きのワラなどというおかしな代物を手に持って立つのはあまりに気恥ずかしい。すこしづつ境内の角のほうに隠れていった。そこに、あの、青年を担当した僧侶が通りかかった。 「なるほど。遊具ですか。良いかもしれませんね。しかし、こんな角では子供は欲しがりませんよ。境内の入り口で立ってみなさい。」 いわれるがまま、境内の入り口に立っていると、案の定、子供を連れた上流階級の人間が幾人か通過していった。当然、上流階級だ。こういう移動はカゴが主流である。ほぼすべてのカゴが窓を閉じているため、アブが子供の目に触れることはない。 青年はもう偶然を待つのみになっていた。窓を開けるという偶然が起きなければ、こんな物は売れようはない。その時である、有名な僧侶が外出しようと境内に出てきた。大人達がその高僧をひとめ見ようとカゴの窓を開ける。最終的に通りの、すべてのカゴの窓が空いた。そして、アブが子供の目に触れた。 「あれが欲しい。」 「いや、汚らしい虫だ。」 あるカゴから親子の押し問答が聞こえた。 「勝った。」 青年は思った。こんな、アブを付けただけのワラを欲する人間がいるのだ。そして、しばらくすると、そのカゴから使いの者が走ってきた。使いの者が問う。 「それを譲ってはくれないか?」 青年は答える。 「いや、これはただでは譲れない。神仏の加護のある特別なものだ。」 既に嘘っぱちだ。しかし、使いの者も引き下がれない。再び問う。 「いかようなものとなら交換できるのか?」 青年は、むしろひるんだ。それに見合った対価など考えていなかったのだ。神仏の名を出した以上、神仏で行くしかない。 「神仏の御加護のあるものだ。御布施で良い。」 これで、商談が成立した。青年にとって初めての商取引であった。青年はその後、ワラを使った子供向け遊具を寺社で御守と同様にして提供し始めた。子供のみならず、いわゆる御守としての効能を期待する大人たちにもそこそこに売れ始めた。しかし、原価はワラだけで良いものの、御布施程度の薄商い。それでも、食うや食わずやの毎日の没落武家にとっては貴重な収入になった。 この作品はフィクションであり、実在するいかなるものとも関係はありません
舟橋正浩
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