京への旅路は、すんなりといった。紹介状で高僧が必要とする個数の蜜柑を確保した。京の蜜柑を扱う商人のほうも、蜜柑不足を延々と恩に着せ渡してくれた。あとは、急いで帰るだけだ。帰り着いたら、これを高僧に売って十分な利益を得ることが出来る。もっと、家中のものに良い生活をさせてやれる。 しかし、すぐには帰途に就けなかった。青年には確かめたいことがあった。そう、隠した鎧兜と刀、父の形見だ。 青年は隠したはずの場所に行った。あの小さな騒乱からわずか3ヶ月程度しか立っていないのだ。さして、風景が変わるはずはない。だが、青年の期待はあっさり裏切られた。青年の隠した場所には、新しい屋敷が構えられていた。平安朝の発展期において、その程度の騒乱でしかなかったのだ。 とうとう、刀も形見も他人の敷地の中だ。いつ持ち出せるか分からない状態になった。とはいえ、今回首尾よく蜜柑を鎌倉に運べばまた、発注が来るはずだ。そうやって往復していれば、いつかはこの家主と交渉することも生まれるかもしれない。そう、納得し、青年は鎌倉への帰途に就いた。 鎌倉に入ると、真っ先に高僧に蜜柑を届けた。そして十分以上の対価を、青年は受け取った。その対価を持って、家に帰った。母も使用人も逃げてはいなかった。帰りを信じて待っていた。青年は、得た対価を使って彼らに十分以上の生活を送ってもらえるほどになってきた。 それから一ヶ月。青年の蜜柑運びは、商売として徐々に軌道に乗ってきた。しかし、蜜柑には時期がある。もう時期は終わりかけてきた。さらに、南まで蜜柑を入手するために足を伸ばすか、それとも、新たな商材を得るかだ。早馬で運べる程度なので、量は少ないとはいえ、各種の薬の取り扱いなど薄商いではあるが、他の商材を取り扱うための信用を確保できている。さらに南に行くには、自分個人の力ではどうにもならない部分も多い。とはいえ、その南国から蜜柑やその他のものを運ぶことが出来れば、京都など大きな市場で売ることもでき、より大きくもうけられるはず。 そんな時、小さな事件が起きた。調庸という、税としての反物を扱う豪族の娘が風邪にかかってしまった。そして、鎌倉長谷寺に診察を依頼した。そして、青年が呼び出された。なじみの高僧が、青年に依頼した。 「なるべく早く、蜜柑と必要な薬を京から調達してくれ。」 青年は、二つ返事でその仕事を受けた。しかし、なにぶん時期はずれのため、京での蜜柑そのものも必要以上に高い。それ一つだけのためなら、おそらく赤字だ。青年に何らかの計算があったわけではない。この地域での蜜柑流通を事実上独占しているのだ。自分以外に出来る仕事でもない。また、この高僧以外のクライアントもさほどいるわけでもない。赤字だろうと何であろうと、行くしかないのだ。 青年は京に急いだ。京に入り、なじみの取引先に無理を強いて、わずか二つの蜜柑を入手した。聞くと、今年はこれでおそらく蜜柑は終わりだという。その商談の中で、ふと、青年は聞いてみた。 「あの、新しい屋敷の持ち主はどういう人だい?」 取り引きをしながら商人は、答えた。 「なんでも、地方から出てきた豪族らしい。焼けた家を買い取って、立て直して住んでいるらしいよ。娘が風邪にかかっているらしく蜜柑が欲しいらしいが、今の金額ではさすがの金持ちも手が出ないようだ。」 青年は考えた。蜜柑は入手できた。おそらく、一つあれば鎌倉の高僧は文句を言うことはないだろう。ならば、もう一つを使って、あの家に入り込めないだろうか。家の構造を把握し、隠した場所が無事かどうかを確認出来るかもしれない。あわよくば、取り出して出てくることも出来よう。 青年は屋敷まで馬を駆けた。そして、門をくぐった。使用人が出てきた。 「どちら様ですか?」 青年は、動じず答えた。 「市中にてこちらが蜜柑を欲していると伺った。先ほどの商いで、蜜柑の余りがあるので、差し上げようかと。ご主人はおらぬか?」 使用人は、困惑していた。 主人は蜜柑入手のため、市中を駆け回っているため、不在なのだという。青年には、さすがに待つほど時間の余裕はない。蜜柑を使用人に渡した。門をくぐったところで、ざっと屋敷を見渡すだけでそこを去ることとなった。 鎌倉に戻った。この商いは、青年にとって大赤字になった。非常に高い蜜柑を仕入れたばかりか、そのうち一つを、無償で、見ず知らずの他人に分け与えてしまったのだ。これで赤字にならないはずはない。 しかし、豪族は非常に喜んだ。少なくとも豪族の長が予想したよりは、短い期間で蜜柑を持って戻ってきていた。そして、娘の病のほうもしっかり治ったのである。いくら喜んでもらっても、青年にとっては今回の赤字を埋めるすべもなかった。さらに、青年にとって、商いの源泉である蜜柑を来年まで失ってしまったのだ。 この大赤字で、次の仕事を考える原資など無い。さらに南に蜜柑を調達する夢など、まさに夢である。せいぜい、次の蜜柑のシーズンまで、また、ワラを用いた御守等の販売を境内で地味にやるしかない。そこで、再び仕入れることの出来るだけの原資を稼いで、再起を期すしかない。 だが、青年に、もはやそういうことは許されなかった。鎌倉長谷寺の医術を専門とする僧侶達にとって、青年の商いは一つの薬剤の入手の経路として、確立しつつある。蜜柑一つ無いからといって簡単に辞められても困るのである。ここで、そのような無責任なことをすれば、来年の蜜柑取り引き自体も、受けてもらえない。そればかりか、境内でのほんの僅かの商取引の権利すら怪しくなるだろう。ただ、どう考えても、京から鎌倉という片道の薬取り引きだけでは、赤字なのだ。 この作品はフィクションであり、実在するいかなるものとも関係はありません
舟橋正浩
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