本誌2/19付けの記事で紹介されている「第2回自由が丘教育の集い・ムーミンに学ぶフィンランドの教育」を拝聴する機会を偶然得ることができた。教育システムの各種のポイントは同記事に譲るとして、この講演を最後まで聞いたときに、もっとも深く感じたのが「日本におけるゆとり教育は本当に失敗だったのか」ということだ。ゆとり教育の背景にあったのは、過剰な詰め込みに対する反省であり、完全に小中の義務教育の内容が机上の空論化していることへの問題提言であった。文部省(当時)の役人が主張するに、それを防ぐための「現場への権限委譲」であり、「教育内容の選択精査の自由」を教育現場に与えることだったはずだ。そういう意味では、ゆとり教育の内容は「現場の態度次第では」、フィンランドの教育システムと大差の無いものが作れたはずではなかろうか? しかし厳然たる事実として「日本ではゆとり教育は失敗だった」と国も認め、教育内容を昔ながらの詰め込みの重視へのゆり戻した。これはなぜか。この回答は、実は記事中には載せられていない質疑応答における会場の声にこそ理由の数々が見出せた。 ひとつには、現場の思考が「カリキュラムをこなすこと」にこそあったということだ。池田氏の講演を受けて、多くの教員をしていた、また、現在をしている方々から上がる質問は「現状のカリキュラムでこうしたことを導入することは無理」とか「進捗の度合いをどのようなテストで測っているのか」という実務上の問題が多い。フィンランドにおいて机上のカリキュラムにがちがちに縛られていない、という氏の講演を無視していたのか、それとも理解できないのか少なからず飛び出してきた。 もうひとつには、親が学校に求める機能性というのが基本的にはカリキュラムをこなすことであり、落ちこぼれをカリキュラムとは違う次元で救済する機能の付加だという点もある。同時に子を持つ親(持っていた親)から出てきた、疑問質問は「落ちこぼれをどうするのか」という論点であり、あげくには「フィンランドには(落ちこぼれに対して)学校に行かない自由は無いのか」という趣旨の発言まで出る始末である。氏の講演にきちんと「先生は基本的に進行のもっとも遅い子へのフォローアップ」をおこうなうことに重きがおかれていることを紹介し、子供の興味関心を重視したラーニングを行っているという事実も紹介している。言い換えるなら「エリート」は存在しても「落ちこぼれ」という概念が存在しないシステムなのである。 いわば、どこまでいっても、日本の教育現場に求められるのは、親も教師も、今までのやり方で理解で気楽に出来る「カリキュラム」にしがみつくことなのだ。そのカリキュラムからのこぼれた人の救済に汲々として、そのカリキュラムをこなして出来る人材の質にまで目がいっていないのだ。指導要領はカリキュラムではない。指導要領に「円周率を3とせよ」と書いてあるというくだらない事実に目くじらを立てて「学力低下の源泉はゆとり教育だ」と大騒ぎする前に、考えるべきことは、親も教師も地域の大人も含め「教育=カリキュラム」と思い込んでいた自分の脳みその愚かさである。ゆとり教育の大前提は「指導要領は参考に過ぎない」としたところにあるのであり、「教育≠カリキュラム」としたことなのである。 日本におけるゆとり教育非難のように結果もろくに出ないうちに、過去のカリキュラム主義でその成果を計って、気に入らないと非難ごうごうである。教育は他人事ではない。このように作るときにろくに参画もせず非難しても意味の無いことなのだ。フィンランドはそうして、国民の総意できちんと今の教育を選び取っている。お上任せで、結果責任をただ非難する国民ではないのだ。 フィンランドの教育システムが教えてくれること、それは、日本におけるゆとり教育再考に他ならない。
舟橋正浩
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