「乾杯」 男たちの祝杯の声が響く。時は、明治5年の年の初め。所は、東京の辰の口の某所。幕末のならず者が集まった獄舎の一角。 この男たち、当時としては珍しく、というより、牢獄内なのにもかかわらず、手に手にビールを持ち祝杯をあげている。年始の祝いを兼ねてか、特ににぎやかに盛大な祝宴が行われていた。 そんな喧騒のさなか、席の隅のほうで、二人の男がひそひそと話しをしている。 「玄蕃、これからどうする?」 玄蕃と呼ばれた初老の男が答える。すこし、玄蕃はろれつが回らなくなってきている。 「それは、こっちの台詞だ。私はもういい歳だしな。故郷にでも下ってのんびりやるさ。カマこそどうする?」 カマと呼ばれた若い男が答える。 「俺もそのつもりさ。でも、せっかくもらった命だ。オランダで学んだセーミ学(今の化学)を駆使して一儲けするさ。それで、上様や私の家族の暮らし向きが良くなれば万歳じゃないか。」 「そうだな、ここの獄から、実家にセーミを使った事業の指南を手紙で書いてたのぉ。」 「でも、兄貴じゃぁなぁ....。分りやすく書いたつもりだけど、どうもピンとこないらしい。社会が西欧化するんで、俺の企ては絶対儲かるんだが」 カマは無念そうにつぶやき、ビールをかき込む。玄蕃もビールに少し口をつける。 「ハイネケンのほうがいいな。やっぱりビールは、欧州に限る」 カマの愚痴を聞き流し、玄蕃が改めて聞く。 「でも、今回の無罪放免は、どうも、黒田某によるもので、放免の後は蝦夷地の開拓を手伝うことになっている、とも聞く。そのときはどうする?薩長に仕えるのか?」 玄蕃が新しいビールのビンに手をつける。カマがカラカラと笑って答える。 「そのときはそのときさ。また軍艦を奪って、いっちょドンパチやろうか」 「おいおい、穏やかじゃないな」 玄蕃が真顔で驚く。カマが笑いながら答える。 「なにいってやんでぇ。あんたがそれを、おれに教えた長崎の伝習所の所長様じゃねか。」 玄蕃が苦笑する。カマが真顔で話を続ける。 「まぁ、それは冗談としてもだ。いちおう、禄を食んだら、その禄に仕えんとね。親子2代で上様の禄を食んだ身だ。薩長には仕える気も、禄を食む気も無いさ。黒田も分るだろうさ」 「で、金儲けというわけか」 と、玄蕃が納得してつぶやく。 「そうさ、これからは経済力の時代、経営の時代さ。駿府に封じられたとはいえ、上様はご健在。捲土重来というわけではないが、この社会で上様とそれに連なるわれわれは、カンパニーの社長と社員みたいなものだ。いい企画を立てて、いい事業を起こして、社員一丸となって一番強いカンパニーになればいいだろうさ」 カマが一気に捲し立て、コップに残ったビールを一気に飲む。 「そういうものかもしれんな。まぁ、カマにはそっちの方が案外あってるかもな」 少し沈黙が流れる。カマがボソッと切り出す。 この作品はフィクションであり、実在するいかなるものとも関係はありません
舟橋正浩
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