うきうきして候-榎本武揚-/2006-05-05 |
1836年生、1908年没。 本編の主人公のモデル。幼名、釜次郎。 彼の父は測量技師で伊能忠敬の内弟子として日本地図作成に携わった榎本円兵衛武規。 榎本武揚は、いわゆる当時の官僚養成学校である昌平坂学問所で学ぶも成績は丙と散々。 19歳で後の函館奉行である堀利熙の従者として蝦夷地箱館に赴き、樺太探検に参加。北海道との縁が始まる。 20歳のとき、幕府が新設した長崎海軍伝習所に入所。ここで、蒸気機関と出会い、蒸気機関の釜と幼名の釜次郎を引っ掛けて幼名で呼ばれることを好んだともいわれる。卒業後、築地の伝習所が作られそちらの教官になる。 24歳から27歳まで、激動の幕末を体験することなくオランダ留学。蒸気機関を始め、いわゆる理系の学問を中心に修める。それ以外にも、プロイセン・デンマーク戦争を観戦武官として経験、国際法や軍事知識、造船や船舶に関する知識を学んだ。オランダで完成した開陽丸で帰国。 帰国後、海軍副総裁として幕府軍の艦隊を指揮。大政奉還、江戸無血開城などを経て、その艦隊を引き連れて東北、北海道と転戦。最後は函館に立て篭もる。オランダ仕込みの法の知識を生かし、交戦団体を諸国に認めさせたり、首謀者を選ぶのに選挙をしたりと、一見すると尊皇攘夷で暴れている京都政権よりまっとうな国に思われるようなことを次々と行う。 函館戦争と呼ばれるこの戦争では敗軍になるも、辰の口の牢獄に入れられ生き長らえる。獄中では、さしもの悪党どもも「幕府の最後の首魁」である榎本一党にいじめをすることはなく、むしろ、榎本一党が牢名主としてリーダーシップを取っていたようだ。獄中では、様々な知識を家族に伝えて起業創業を促している。また、そうしたことを牢獄でも教え、さながら学校のようだったとも。 その後、明治5年に黒田清隆や福沢諭吉の助命嘆願により、無事釈放される。 釈放後は開拓使4等出仕として、当時、開拓使次官だった黒田清隆の下で精力的に北海道調査を行っている。二度目の北海道調査ではあるものの、その大地の可能性に関しては、鉱業、農業、漁業と幅広く認識し記録し、その方策を提言している。しかしながら「官助を仰ぐ人民は開拓の民にあらず」という言葉を残しており、その移民として送り込まれていた人々の質に対しては、あまり良い印象を持っていなかったようだ。また、対雁(ついしかり:今の江別)などに農地を買い人を雇って開拓をさせている。最終的に、当時の外国人顧問団と折り合いが悪く、また、ロシアや中国との関係が難しくなってきたためこの交渉役にするために翌年には開拓使を離れる。 その後、海軍中将、外務大輔、海軍卿、駐清公使、逓信大臣、外務大臣、文部大臣、農商務大臣を務め、1890年には子爵となる。 1891年に徳川育英会育英黌農業科(現在の東京農業大学)を設立。かれは国際人として優れた感覚がある反面、当時の日本人一般の土着感覚というのが薄いせいか、その辺の民情が上手く汲み取れず、対雁農場やメキシコ移民などではかなり失敗をしている。こうした経験から植民政策を担える農業指導者を育てるのが目的だったようだ。植民地開拓として様々な可能性を試みてきた榎本をはじめとする人々。現代の北海道の政策を見直す上で、彼らの足跡を見直すことは一つの指針になると思われる。
舟橋正浩
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