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Last UP Date:2014-06-29
うきうきして候−永井尚志−/2006-05-11
 1816年生、1891年没。
 前編の聞き手のモデル。幼名、岩之丞。官位は玄蕃頭。
 三河国奥殿藩主松平家の出身。幼少の頃から学問に長けた。25歳のとき親類で加納藩の幕臣永井家に養子に。
 昌平坂学問所で学び、33歳のとき幕府の大試に甲で合格。その後昌平坂学問所の分校、甲府徴典館の校長に就任。その後、江戸に戻り、御徒頭に抜擢、御目付役へと昇進。御目付役となったのち長崎監察史として長崎へ。
 赴任中、英国と条約の締結の交渉にあたる。それと平行してオランダとの条約交渉も。
 この間、オランダからの申し出あり長崎の海軍伝習所が開設。永井は伝習総取締、すなわち所長に任命される。本編では榎本との接点がここからあったような設定になっているが、第二次の伝習生が来崎すると、一期生らとともに永井は江戸へ帰っているので、実際はほとんどすれ違いで、仮に会っていても深い交友はもてなかったと思われる。築地の軍艦教授所の開設も永井の仕事である。ここの所長のときに榎本は教授として赴任。榎本とは校長と生徒から、校長と教官という間柄になる。
 1864年には大目付に。1863年の8月18日の政変、1864年の禁門の変では幕府側の使者として朝廷と交渉役として活躍。1867年には若年寄にまで出世する。その後、長州征伐の戦後処分が軽すぎると、大目付を解任される。長州藩はその後も反幕の姿勢を強めつつあり、再度、永井は大目付、外国奉行、長州御用掛に任命される。
 後藤象二郎が大政奉還の建議を幕府に提出。永井が対応し、幕府は大政奉還を受け入れる。十月十四日に幕府から朝廷へ提出された大政奉還の起草文は永井によってつくられたとも。幕府の幕引きに重要な役割を果たす。
 鳥羽伏見の戦いでは、慶喜が敵前逃亡し士気が落ち敗戦。混乱する大阪城を収拾させ、江戸に戻るも、鳥羽伏見の責任を負わされ罷免。まさに踏んだり蹴ったりな人物である。
 1867年、永井は自分の養子とともに榎本艦隊に合流。ちなみに勝海舟は日記に永井によって榎本らは扇動されたのではないかと疑っている。ただ、榎本と彼の人物や経歴を見ると唆したのはどっちなのやらという気も。榎本艦隊が箱館上陸後は、選挙を待たずにまず箱館奉行に就任。その後の選挙でも函館奉行に。
 1872年、明治政府に出仕し開拓使御用係に。左院小議官をへて、1875年元老院権大書記官。
 榎本とはちょうど20歳差。榎本と違い、官僚の学校もいい成績で卒業し、海外に行かなかった分、日本の激しい変転を目の当たりにし苦労した人物。青年、榎本釜次郎にはこうした自分より年上目上を惹きつける何かがあったらしく、彼のように函館まで苦楽を共にした中高年は少なくないようだ。
舟橋正浩
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