発行:Funahasi.Com & 北海道経済産業新聞運営委員会
Last UP Date:2014-06-29
うきうきして候-荒井郁之助-/2006-06-07
 1836年生、1909年没。
 後半の聞き手のモデル。幼名、幾之助。開拓使仮学校における事実上の初代校長心得。
 幕府御家人荒井清兵衛の長男として生まれる。叔父に、長崎伝習所一期生で幕府最後の海軍総裁、矢田掘影蔵を持つ。7歳より漢学、12歳より剣術を学ぶ。14歳で昌平坂学問所に入学した。榎本と同様、彼にとってここでの学問は退屈だったらしい。とはいえ、榎本とは違い、最低ランクで通過するぐらいの努力はしたようだ。
 1857年、21歳のときに築地の幕府軍艦操練所に一期生として入学。この時点で、榎本は教官として赴任してきているので、年は同じだが、郁之助は榎本の生徒にあたる。向学心に燃える青年だったらしく、二期生の甲賀源吾(函館戦争時の回天丸艦長)と共に高等代数、高等幾何、微分積分学の研究も行っている。
 榎本の留学中に、軍艦操練所世話心得、教授等を経て、軍艦操練所頭取(校長)に就任。また、25歳のときに江戸湾や小笠原諸島の測量など海洋実務にも才狽 ュ揮。当時、幕府海軍の旗艦だった順動丸などの艦長を務める。その後、海軍関連の業務を離れ、陸軍の講武所取締役に就任。30歳のときに幕府の軍艦頭(艦隊司令官)に就任。再び海軍職に戻る。
 32歳のときに榎本とともに函館に。函館政権下では海軍奉行として活躍。敗戦後、榎本らとともに辰の口の牢獄に入れられる。また、榎本らとともに罪を許され出獄。明治5年に開拓使に出仕。開拓使仮学校の設立に尽力する。よく誤解されるが、実は仮学校には校長はいなく、たまたま操練所校長のとしての経験で学校実務があり、各種の数学や気象学の研究を通じて西洋の学問に通じていた郁之助がその設立に一番動いたため事実上の校長として扱われていたに過ぎない。
 しかし、当時の蝦夷に関する日本人一般の認識等のせいで、集まる学生の質は低く、アンチセルら外国人教官との折り合いも悪かった。たまたま開拓使次官黒田が見学したときに、あまりの生徒の態度の悪さに、スティッキを振り回して閉鎖を叫んだという逸話もある。
 明治7年、開拓使仮学校閉鎖後、事実上の仮学校校長心得をとかれて、北海道に渡り北海道を測量。日本初の本格的な三角測量による地図製作を導入した。明治10年には、東京数学会社 (日本数学会、日本物理学界の起源) を創立。明治16年に内務省測量課長に。明治20年には新潟県三条町で日本初の皆既日食の撮影に成功。明治23年には中央気象台初代台長に就任。気象天文等学問全般にも多大なる功績を残している。
 糖尿病がもとで永眠。享年74。
 前半生は家柄と留学をしなかったことから上級官僚として送り、後半生は一科学者、一技官として日本の近代化を支えた。前半生は家柄と成績不良と留学のせいで蒸気機関を中心とした技官だった榎本が、後半生には各種大臣として活躍したのとは好対照である。
 ちなみに郁之助は下戸で甘党。コーヒーは好きだったらしい。酒を飲まないことに書き終わった後に知ったため、本編のプロットを一度書き直した。
舟橋正浩
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