発行:Funahasi.Com & 北海道経済産業新聞運営委員会
Last UP Date:2014-06-29
うきうきして候-坂市太郎-/2006-06-29
 1854年生、1920年没。
 本編の話中に出てくる仮学校の卒業生。
 美濃大垣藩生まれ。明治5年7月、美濃大垣藩の壬生義塾から東京芝の開拓使仮学校の測地測量の生徒として私費で移る。優秀だったらしく9月には官費生徒になる。明治6年3月にライマンの北海道地質測量の従者として、開拓使仮学校の生徒から数名選んで北海道に連れて行った。その中に板市太郎も加わる。
 もともと、この測地測量はアンチセルの仕事であったが、彼がアメリカお抱え顧問団のボスであるケプロンとの折り合いがあまりに悪く、開拓使仮学校に教員として飛ばされてしまった(最終的には本国まで帰った)ので、その代わりにやってきたのがライマンである。ちなみに、アンチセルは仮学校では理化学(セーミ学)を教えていて、坂市太郎も彼に学んだうちの1人でもある。
 坂が北海道に渡ってから、ライマンの指導のもと炭鉱等の調査を行った。まさに「学校の講義を実地に応用するはじめでありました」と晩年語ったように、かなりの緊張感と知的興奮を持って測地測量を行ったようだ。ちなみに、この測地測量の過程において、明治11年に湯浴み沢(ゆわみさわ)を語源とする今の岩見沢で、幾春別川の河の水を引き込んで沸かして、初めて湯浴みをした人物でもある。
 その後、中央省庁で普通に働く官僚に。ライマンと坂などの弟子たちによって、明治13年まで工部省にて油田の調査などにも携わる。明治13年からは内務省勧農局地質課に勤務。明治の初めから測地調査地質調査を北海道でこなしてきたベテラン技師として非常に期待されていたようだ。しかし、その間に、越後の石油を企業化しようと祖母の公債を持ち出し経営をはじめるなど、起業家的な側面も見せだす。
 明治20年末に再び北海道の官僚になる。とはいえ開拓使はもうなく北海道庁の4等技師としての転出である。明治21年に空知炭田の鉱量の確定の作業を行った。さらに夕張炭田の発見。あわせて、困難であった夕張川の上流の地形の測量にも成功した。明治23年には、道内の各炭鉱の払い下げを受け、ここの石炭を採掘し運び出す北海道炭鉱鉄道会社に出向となる。しかし、先進的な炭鉱関連の知識と経験は、この現場では十全に生かせなかった。そのため充分な成果を出せずに、明治25年に同社の出向から戻る。
 明治26年に道庁を退職。一般人になる。40歳。出向先だった北海道炭鉱鉄道会社が放棄した上歌志内の炭鉱を取得。この経営は石狩石炭株式会社に委託し、自分自身は茨城炭鉱株式会社の技術責任者におさまった。しかし、その後、歌志内石狩石炭が行う採炭方法が思わしくなく、大正元年に委託を止め、上歌志内鉱を坂一族による同族経営で行った。大正5年に立坑を採用することで採炭量も次第に増加し、翌6年には坂炭鉱株式会社を設立した。
 武士として生まれ、技術官僚として育ち、実業家として死んでいった、北海道ではかなり稀有な存在である。
舟橋正浩
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