榎本武揚は、従者として、旧幕府軍の頭目として、官僚としてと、三度、開拓や入植開墾を目的として北海道入りをしている。しかし、彼自身が開墾を直接指示する立場にはなく、彼自身の考えで開墾や拓殖が行われることはほとんどなかった。 彼が人生で行った拓殖は二つで、ひとつはメキシコの移民。もうひとつは今の北海道の江別市である。その手法は、どちらも拓殖をする企業を設立しそこに雇用を行って、その雇用者を使った開墾だった。欧米では比較的普通のスタイルで、官の拓殖政策とあいまって運営されて実効を挙げているものでもあった。 榎本による北海道での開拓が行われたのが、対雁(ついしかり)というところで、今の江別市である。開拓使は明治5年に土地の売買を可能とした。そこで、榎本をはじめとして開拓使の有力官僚が率先して親類縁者の名義等で購入した。この購入に関しては、民間による開拓を期待したがうまく行かなかったので官吏が買うようにとの積極的な働きかけがあったという説と、いち早く役人が買い占めて値上がりを狙って懐を暖めようとしたという説がある。 このときに、榎本が購入したのが小樽の一部と対雁である。小樽の方は結局港湾開発が進み、宅地としての価値が上がり、そのまま売却しその利益を旧幕臣の師弟を支援する基金に全額寄贈したそうだ。対雁のほうは、一説には堀織部正と北海道巡検をした際に既に訪れていて、農地としてこの時点から目をつけていたとも言われている。そこまで早かったかどうかは不明だが、実際に開拓使にて炭鉱巡検をする際に、札幌~江別~岩見沢~幌内という順序で道があり、常々通過している場所でもあったから、その農地としての適性と言うのは充分判断した上での購入と思われる。 具体的な開墾には北辰社という会社を設立し、そこに人を雇い入れ木の伐採や整地を行った。いわば、ヨーロッパ等で普通に行われている企業体による拓殖手法である。留学等を通じて、植民地開拓の手法を学びそれを取り入れたものであろう。また、開墾そのものの手法としても、伐採に火薬を用いる事を試験するなど、制度面、技術面の両面において欧米に近いものを取り入れて挑戦していたようだ。 しかしながら、当時の農業というものに限らず、会社雇用という新しいスタイルや、農民の土地への愛着という古来からの一般人の感情と相容れない要素が多すぎ、あまり実をなさなかった。その後、対雁農場は榎本武揚の子に引き継がれ、大正7年に雇用者に対して土地を分割して、いわゆる小作から一般の農民にした。最終的に会社組織による拓殖計画としては失敗に終わったが、江別地域の早世記において重要な役割を果たしたといえる。 ちなみに、榎本武揚は後にメキシコの移民も計画し、日墨拓殖株式会社という会社を設立し、その会社組織にて、拓殖、殖産をメキシコにて行おうとした。やはり、これも移民者の世情と上手く折り合わず頓挫している。 ヨーロッパにおける法人による産業振興を持ち込んだという点では非常に先進的ではあるが、まだまだ文明開化したての日本人には、働いてサラリーをもらうという感覚ですら理解しにくかったようだ。
舟橋正浩
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