現在の北海道大学の前進といわれる学校。明治5年に東京の開拓使出張所のある増上寺内に設けられた。本来は、開拓使本庁のある札幌に作られるべきものを、一時的に東京に作ったので仮学校という名になったといわれている。 ケプロンらお抱え外国人顧問団のアドバイス、とくにアンチセルの建言で、学校が必要という判断になり、明治5年4月に開校した。とはいえ教職員に関する職務規定もなく校長すら置かれていなかった。たまたま、担当者の中で職位の一番高かった荒井郁之助が事実上の校長として活躍した。そのため、彼が北大の事実上最初の校長とも言われることも少なくない。アイヌへの教育もあわせて行うべく、北海道からつれてきて教育を受けさせたり、女学校を併設し女性教育も活発に行っていた。 開校の目的について、荒井郁之助はアンチセルと共同で編纂した英和辞書の辞にこう記している。北海道は緯度が40度~50度程度でヨーロッパ北部と比べれば温暖な中緯度に位置しているにもかかわらず北海道の開発は進んでいない。それは「人知開けずして学問の進歩遠く彼に及ばざる」せいであって、西洋の学問を身につければ、おのずと北海道の開拓も進むはずである。と。アイヌへの教育もあわせて行うべく、北海道からつれてきて教育を受けさせている。 しかしながら、実際の運営は多難を極め、酒を食らってるだけのようなやる気のない多くの学生と、そんなやる気のない奴に教えるのは嫌だというアンチセルをはじめとする教官が真っ向から対立。学生が退学する事態にも発展した。挙句に、開校して1年経った明治6年3月には、開拓使次官の黒田清隆が仮学校を視察。学生たちのあまりの酷さに「みんな出て行け。貴様らのような人間は無用じゃ」とスティッキを振り回し激怒。これで、一度、開拓使仮学校は閉鎖となる。そこで荒井郁之助は仮学校を離れる。 とはいえ、必要な人材の教育は進めなければならないので、今どうしても必要とされていた「地質測量生徒」と「電信生徒」の教育は継続され、さらに「女学校」も継続していた。坂市太郎はこの「地質測量生徒」にあたる。 同年4月になって改めて開校。閉校になったときの反省から、教職員、生徒それぞれに対して規約規定をきちんと整備しての開校であった。また、明確に校長等の役職も設置し、調所広丈が校長心得となった。明治8年に仮学校は札幌に移転し、札幌学校となりその歴史を閉じる。 仮学校は多くの人材を輩出したと言われるものの、現実にはあまり質の高くない学生が多く、その実行を充分にあげれなかったというのが実際のところのようだ。北海道の経済発展という視点から見ると仮学校の成果は、外国の進歩を理解するときに必要な英和辞書が編纂されたことと、少数ながら科学技術を理解した優秀な官僚を輩出した、というぐらいしかないのかもしれない。
舟橋正浩
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